何やってんだか

日記です。最近は不定期投稿。

7/17 改めて考える「国葬」とは?そのねらいとは?

連休2日目。早く起きるつもりが、昼まで寝てしまった。まあいいや。

夕方は家族とロイヤルホストでステーキを頂いた。家では食べられない肉厚ステーキで非常においしかった。

安倍元総理の国葬実施についての所感

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そろそろこのブログでも取り上げていい頃だろう。安倍元総理銃撃事件で国葬が実施されることに賛否両論となっている。(賛成しかいない、反対しかいないってのもおかしいからそもそも賛否両論なのは何の話題にしても当たり前だが)

国葬実施の真意とは?

おそらくだが「国葬」へのとらえ方の違いが意見の乖離を生んでいるのだろう。反対派も賛成派も国葬を国民全員を喪に服させて安倍元総理を神格化する儀式のようにとらえていて、その是非について議論している。

実際はそうでもないだろう。

www.sankei.com

現在安倍元総理への弔問を多くの国家要人が希望している状況で、彼らがばらばらに来られても手筈や警備、その他調整にかかるリソースで外務省が過労死してしまう。そこで、言い方は悪いが一大イベントとして弔問キャンペーンを集約しているのが「国葬」なのだ。そもそも個人的な葬儀は増上寺で行っている。

すべてがそうとは言わないが、今回の国葬は外交キャンペーンだと思って差支えはない。山本五十六元帥の国葬のように、プロヴァガンダ色の強い国内向けキャンペーンではない。ここ日本はまだ自由国家であり、安倍総理は少なくとも欧米からは追悼コメントで「自由主義・民主主義の擁護者」とされていて、そうでないような傾向があるならば、国葬のお客様たる彼らからは決して歓迎されないだろう。

結局これはどのように捉えたらいいのか

安倍元総理の功罪についてはそもそも様々な議論があり、死後は皆追悼ムードだったが時間がたてばたつほどそのエントロピーは再び増大する。つまり様々なとらえ方があってよいし、そうあるべきだ。

喪に服したい人は服せばよいし、涙を流したい人は流せばよい。またそれでも国葬を快く思わない人は、それも悪いことではない。僕も別に一日中喪に服すようなことはなく、普通に勉強しようと思う。それぞれが事象について自分の頭で考え心で思うのが自由国民のあるべき姿だ。一般的に何かを他人に強制することがあってはならない。

しかし、最低限の常識として

安倍元総理の死は、どのような背景事情があろうとテロリストによってもたらされたものであることは間違いなく、テロリストへ微塵でも同情することは模倣犯の出現を招きかねない。自由な言論は暴力の排除によって不断に維持されなければならない。

また安倍元総理の功罪については様々な議論あれど、死そのものを揶揄したり、あろうことか誹謗中傷するようなことは非常識なことで、人の道を踏み外した行為だ。

これらの行為は厳に慎もう。

改めて、安倍晋三元総理大臣のご冥福をお祈り申し上げます。

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