何やってんだか

日記です。最近は不定期投稿。

11/24 コラム: 人生のメインクエスト

人生を生きていると結構イベントが発生する。大きいものになると受験や就職、もしかしたら犯罪に巻き込まれる、というのもあるかもしれない。小さいイベントとしては忘れていた提出物の存在を夜寝る前に気が付く(なんて解像度が高いんだ!)とか、友達と遊びに行くとか、恋愛のいざこざ(告白とかは大きなイベントに分類されるのかな)とか。

その中のどれくらいが、もしあるならば、メインクエストの伏線になっているのだろうか?

人生にはメインクエストがあると僕は思っている。何か、これを成し遂げる為ならば/成し遂げたならば死んでもかまわない、というヤツ。大抵の人にとってのメインクエストは、世界をさほど変えないだろうし、達成しようがしまいが、それがどうであっても人類、むしろもっと小さなコミュニティに対しても影響がない、若しくは自分自身のほかに一切影響を与えないものなのかもしれない。僕はその大小には興味がない。とにかく命を懸けられる使命を、十分な時間さえあれな全ての人が自覚できるのだろうか?

もしかしたらまたは僕が、人とはそうであってほしいと願っているのが表層化したのがこの疑問、信念なのかもしれない。確かに僕が尊敬する人達は、何か使命のために働いて、一部は死んだ。それは彼らが命を捧げたその使命こそ僕が彼らを尊敬する所以であるからだ。もしかしたら彼らは本当は別の事がしたかったのかもしれないし、特にその使命と心中する気はないのかもしれない。勝手に彼ら—それも僕が尊敬する—に死を押し付けてはならないのは分かっているが、どうしてもそのような側面を見出さずにはいられない。

そういえば僕は死をどのようにとらえているのだろう?今見る限りでは、何か、つまり人生のメインクエストに使うための道具のようにとらえているように見えるが、これもまた違うような気がする。何を以って死ぬのかに対しての感情的で神経質な残酷さからくる審美的な感性によって、死をとらえている…というのが今の僕が最大限の言語化だ。三島由紀夫のような思想が少し流れているのは否定できない。

とはいい、三島に傾倒しているわけではない(と自分では思っている)。僕がもし死ぬならば、それはナルシズムに起因していないだろうことは何度かの自死への検討の中で分かっている。(彼のもつナルシズムが彼の死の直接的な理由となっているとは思わないが、少なくとも潜在的な理由ではあったと僕は考えている。)

自分でも忘れかけていたが、僕の死生観は今日のコラムのタイトルではない(潜在的なサブタイトルではあるようだが)。そろそろ話を戻そう。

本当に死ぬかはさておき、人には各々なすべきメインクエストが存在し、序盤で述べたような小さなイベントにその伏線があるとしたら僕は非常に面白いと思う。ただ、それは運命ではなく、その小さなイベントの選択の結果によって定まるものだろう。どこかの時点でメインクエストは確定し、いつかの時点で運が良ければそれを自覚し、人はそれに向かって進める。

僕はメインクエストが欲しい。早く自覚したい。その導きがなければ死んでしまいそうだからだ。しかしそのためには、導きない日々を大切に生きなければならない。暗闇の中で時折現れる壁や看板を伝って『正解』につながる1本のロープを探すのは気が狂いそうなほど辛い作業だ。それに耐えられずに死を選んだ人もいるだろう。神様とかそういうのに導きの機能を求めただろう(もちろん、宗教を熱心に信じる人は考えることをやめている、などと言う気はない、僕はむしろその逆だと思う)。

今の日本は自由を重んじる良い時代を迎えていると思うが、国家や地域が生きる目的をあっせんしてくれない、ネオリベラルのような性格を持っていてそれがメインクエストを探しづらくしていると僕は思う。大して生きる意味など考えずに僕も19年間生きてきたし、今の日本人の多くはそのまま死んでいくのだろう。そういう意味ではメインクエストなんてないのだろう。ゲームと違い、それに向き合わなくても何とかなるからだ。

考えれば考えるほど、自分が暗闇の中にいることを深く自覚して気が狂いそうになる。それでもこの文章を書いたのはその感情を理解したいがための、いわば実験だ。

僕のメインクエストは何なのだろうか。自覚して、生きて、果たして、そして死ねるのだろうか。

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